文明開化の公共事業
250年近くの鎖国解除は安政5(1858)年だ。
現在でいえば禁止である規制許可を一定条件のもと
に許した。解除条件は翌年に長崎の他、神奈川(横浜)、
箱舘(函館)の港が開かれたことである。参考資料は
「清水建設百八十年」(非売品/昭和59年6月)より
引用させて戴く。清水建設㈱前身、清水屋も喜助の
娘に婿養子を迎えた。愛弟子の藤沢清七(二代目清水
喜助)である。彼は事業承継した江戸末期に幕府より
諸外国公館が品川御殿山に設置されるので、外国人
居留ホテル施設「築地ホテル館」施工を請け負った。
明治6(1873)年6月日本橋南詰の駿河町に創立
の第一国立銀行(旧第一勧業銀行/現みずほ銀行)も、
請負うことになった。明治14(1881)年、二代
喜助は逝去した。その後継者として、その娘婿養子
に三代目満之助が29歳でなった。ところが、彼は
欧米視察を終え帰国した明治20(1887)年35
歳で急逝した。初代二代で築いた建設請負業を設計
監理の域まで向上させようとした人であった。その
後やっと明治22(1889)年、入札契約は法制化
された。「明治会計法」である。先の敗戦まで続く。
現在でいえば禁止である規制許可を一定条件のもと
に許した。解除条件は翌年に長崎の他、神奈川(横浜)、
箱舘(函館)の港が開かれたことである。参考資料は
「清水建設百八十年」(非売品/昭和59年6月)より
引用させて戴く。清水建設㈱前身、清水屋も喜助の
娘に婿養子を迎えた。愛弟子の藤沢清七(二代目清水
喜助)である。彼は事業承継した江戸末期に幕府より
諸外国公館が品川御殿山に設置されるので、外国人
居留ホテル施設「築地ホテル館」施工を請け負った。
明治6(1873)年6月日本橋南詰の駿河町に創立
の第一国立銀行(旧第一勧業銀行/現みずほ銀行)も、
請負うことになった。明治14(1881)年、二代
喜助は逝去した。その後継者として、その娘婿養子
に三代目満之助が29歳でなった。ところが、彼は
欧米視察を終え帰国した明治20(1887)年35
歳で急逝した。初代二代で築いた建設請負業を設計
監理の域まで向上させようとした人であった。その
後やっと明治22(1889)年、入札契約は法制化
された。「明治会計法」である。先の敗戦まで続く。